#108天然温泉 久松湯 二代目店主
風間幸雄さん
公開:2015.10.01
小4から、薪を割っていた!
昭和の銭湯の日常風景は…
白いタイルとガラスを組み合わせた、開放的で今風の外観。煙突ものれんもないけれど、ここはれっきとした公衆浴場、銭湯です。2014年、天然温泉を掘って生まれ変わった久松湯。しかし昔は、どっしりした瓦屋根に煙突という、いわゆるザ・銭湯でした。
「小学4年生くらいから、薪割りのお手伝いをしてましたね。もちろんチェーンソーなんてなく、斧で1本1本。楽しかったですね。番台に座ることもありましたが、なんとも落ち着かなくて恥ずかしかったなぁ(笑)」
「もちろん家族は、閉店後に大浴場に入るんです。家のお風呂をまったく使わないから、壊れちゃったっけ(笑)」
そんなエピソードを語ってくれるのは、2代目の風間幸雄さん。お風呂屋ならでは話がいきいきと飛び出します!
「創業時の昭和30年代は銭湯全盛期。一般家庭にまだ風呂が普及していなかったから、お客さんが入りきれないほど来てね。ゆっくり浸かるというより、どんどん洗ってどんどん出てと、せわしい。洗い場のカラン(蛇口)が足りなくて、譲り合うこともよくある光景でした」
「第二次ベビーブームの昭和40年代頃は、番頭さんのほかに、女中さんがいました。お母さんが洗っている間、子どもを拭いてあげたり、服を着せてあげたり、面倒を見るんです」
今では見られない昭和の光景が、風間さんの口から浮かび上がります。
"銭湯っぽくない銭湯"に建て替え、
にぎわいの場が復活!
練馬区の銭湯の数は、88軒から現在27軒と3分の1に激減。久松湯も、2011年の大震災で煙突が傾き、廃業の危機が訪れます。そこで建て替えを決意させたのが、長男の存在でした。
「子ども4人が、みんな男。1人くらい継いでくれるだろうと思っていたんですが、長男が『やる』と言ってくれて。それならと、建て替えを決意しました。先代の父がまだ元気なので、早く新しい湯を見せたいという思いもありましたね」
とはいえ今は昔と違い、98%の家にお風呂がある時代。建て替えにあたり、家風呂にはない価値や癒しをと考え、温泉を掘ることに。煙突より高い30mのやぐらを組み、1,500m掘ったところで、温泉に突き当たりました!
「泉質はナトリウム、つまり塩の成分ですね。大昔は海だったと実感しました。石油が出れば、練馬の石油王になれたんだけどね(笑)」
こだわったのは、ずばり"非・銭湯っぽさ"でした。
「今の外観は美術館とか、図書館みたいでしょう? 銭湯っぽくしたくなくて、銭湯専門の設計士には頼まなかったんです。水回りの設計は難しいので不安もありましたが、『好きなようにやってくれ』と任せました」
壁面にはプロジェクションマッピングを導入。それらの珍しさから各メディアで取り上げられ、多いときには1日に700〜800人もの来場が!
「全盛期並みの入りで、うれしかったですね。小さいお子さんから学校帰りの学生、カップル、おじいちゃんおばあちゃんまで、みんなが来てくれて昔を思い出しました」
温泉に入ったお客さんの反応はというと、
「膝や腰の痛みが楽になったとか、あせもが治った、アトピーがよくなったとか、いろんな感想をいただきます。うちを気に入って、近所に引っ越してきたお客さんもいるんですよ!」
もはや銭湯の域を超えている!? と思いきや、風間さんの根本にあるのは、「あくまでも公衆浴場、地域のコミュニティの場」というこだわりでした。
「今、独居老人がお風呂で亡くなる事件をよく耳にします。でも銭湯なら、何かあればすぐに助けられます。長生きするなら銭湯の時代なんです」
豪快な風間さんの笑顔から元気もいただきました。身も心も温まる「天然温泉 久松湯」、一度は訪れてみたい練馬の新名所ですね。
(2015年10月1日)
昭和の銭湯の日常風景は…
白いタイルとガラスを組み合わせた、開放的で今風の外観。煙突ものれんもないけれど、ここはれっきとした公衆浴場、銭湯です。2014年、天然温泉を掘って生まれ変わった久松湯。しかし昔は、どっしりした瓦屋根に煙突という、いわゆるザ・銭湯でした。
「小学4年生くらいから、薪割りのお手伝いをしてましたね。もちろんチェーンソーなんてなく、斧で1本1本。楽しかったですね。番台に座ることもありましたが、なんとも落ち着かなくて恥ずかしかったなぁ(笑)」
「もちろん家族は、閉店後に大浴場に入るんです。家のお風呂をまったく使わないから、壊れちゃったっけ(笑)」
そんなエピソードを語ってくれるのは、2代目の風間幸雄さん。お風呂屋ならでは話がいきいきと飛び出します!
「創業時の昭和30年代は銭湯全盛期。一般家庭にまだ風呂が普及していなかったから、お客さんが入りきれないほど来てね。ゆっくり浸かるというより、どんどん洗ってどんどん出てと、せわしい。洗い場のカラン(蛇口)が足りなくて、譲り合うこともよくある光景でした」
「第二次ベビーブームの昭和40年代頃は、番頭さんのほかに、女中さんがいました。お母さんが洗っている間、子どもを拭いてあげたり、服を着せてあげたり、面倒を見るんです」
今では見られない昭和の光景が、風間さんの口から浮かび上がります。
"銭湯っぽくない銭湯"に建て替え、
にぎわいの場が復活!
練馬区の銭湯の数は、88軒から現在27軒と3分の1に激減。久松湯も、2011年の大震災で煙突が傾き、廃業の危機が訪れます。そこで建て替えを決意させたのが、長男の存在でした。
「子ども4人が、みんな男。1人くらい継いでくれるだろうと思っていたんですが、長男が『やる』と言ってくれて。それならと、建て替えを決意しました。先代の父がまだ元気なので、早く新しい湯を見せたいという思いもありましたね」
とはいえ今は昔と違い、98%の家にお風呂がある時代。建て替えにあたり、家風呂にはない価値や癒しをと考え、温泉を掘ることに。煙突より高い30mのやぐらを組み、1,500m掘ったところで、温泉に突き当たりました!
「泉質はナトリウム、つまり塩の成分ですね。大昔は海だったと実感しました。石油が出れば、練馬の石油王になれたんだけどね(笑)」
こだわったのは、ずばり"非・銭湯っぽさ"でした。
「今の外観は美術館とか、図書館みたいでしょう? 銭湯っぽくしたくなくて、銭湯専門の設計士には頼まなかったんです。水回りの設計は難しいので不安もありましたが、『好きなようにやってくれ』と任せました」
壁面にはプロジェクションマッピングを導入。それらの珍しさから各メディアで取り上げられ、多いときには1日に700〜800人もの来場が!
「全盛期並みの入りで、うれしかったですね。小さいお子さんから学校帰りの学生、カップル、おじいちゃんおばあちゃんまで、みんなが来てくれて昔を思い出しました」
温泉に入ったお客さんの反応はというと、
「膝や腰の痛みが楽になったとか、あせもが治った、アトピーがよくなったとか、いろんな感想をいただきます。うちを気に入って、近所に引っ越してきたお客さんもいるんですよ!」
もはや銭湯の域を超えている!? と思いきや、風間さんの根本にあるのは、「あくまでも公衆浴場、地域のコミュニティの場」というこだわりでした。
「今、独居老人がお風呂で亡くなる事件をよく耳にします。でも銭湯なら、何かあればすぐに助けられます。長生きするなら銭湯の時代なんです」
豪快な風間さんの笑顔から元気もいただきました。身も心も温まる「天然温泉 久松湯」、一度は訪れてみたい練馬の新名所ですね。
(2015年10月1日)
2014年にリニューアルした 久松湯の外観 (写真提供:久松湯)
2012年の久松湯外観。 温泉を掘っている様子 (写真提供:久松湯)
建て替え前は、浴場の壁画も ペンキ絵やタイル絵など 何度か変えている (写真提供:久松湯)
リニューアル後、 湯けむりをあしらった看板も モダンです!
泉質は有馬温泉と同じ。 露天風呂は、ここが練馬だと いうことを忘れそうな、解放感! (写真提供:久松湯)
リニューアル後は 銭湯絵でなく光の演出、 プロジェクションマッピング! (写真提供:久松湯)
「地域のコミュニティの場」を つくりたい、という 先代から受け継ぐ熱い思い。 いくつもソファが置かれた くつろぎの空間もその思いから
三代目として修行中 4人兄弟の長男・貴之さん
かざまゆきお 1957年、練馬区桜台に生まれ育つ。先祖から420年受け継いだ土地で、1956年(幸雄さんの誕生する半年前)、父親が銭湯をオープンした。幸雄さんは5年間サラリーマンを勤めたのち、先代のもとで働き始める。ひばりが丘に姉妹店があり、そこは同時期に弟夫婦が継いだ。数度の中普請(釜の入れ替え、改修など)を経て、2011年建て替えを検討。2014年5月、「天然温泉 久松湯」としてリニューアルオープン。練馬区公衆浴場組合では支部長を務める。加盟浴場はすべて災害時の練馬区緊急給水施設になっている。練馬で好きな場所は、犬の散歩でよくいく城北中央公園。光が丘公園は、練馬区公衆浴場組合の仲間と野球チームを組んでいた頃、利用していた。
天然温泉・久松湯
(西武池袋線「桜台駅」北口より徒歩5分)
詳細はホームページをご覧ください。
天然温泉・久松湯
(西武池袋線「桜台駅」北口より徒歩5分)
詳細はホームページをご覧ください。