特集記事 Reviews
#058 練馬放送 代表
宅美健太郎さん
出身じゃないからこそわかる
練馬のよさとポテンシャル
練馬にコミュニティFMを作ろうと活動している「練馬放送」の代表の宅美さん。現在、毎週日曜10時から、生放送番組の「ねりなま!サンデー」を始めとするインターネットラジオを行いつつ、各種イベント参加や営業に大忙しの日々。今年5月には関町に、念願の専用スタジオを開設しました。
「しみ抜き専門業者の知人が、独立の時、声をかけてくれたんです。しみ抜き店と同居するラジオ局は、世界でここだけかなと…(笑)。今までは機材を持って区内を転々としていたんですが、やっぱり拠点があるといいですね。毎週の生放送には、差し入れしてくださる方がいたり、子どもと見学に来られたり、反応があってうれしいです」
そもそも練馬放送とは、2009年に有志数名でたちあげた任意団体です。でも宅美さん自身は埼玉の出身。なぜ練馬に拠点を置いたのでしょうか?
「昔からラジオが好きで、ミニFM番組の自主制作をやっていたんです。でも、毎週集まっていた仲間の家が使えなくなってしまい、みんなが集まりやすい中間地点に移動しようとなった。それがたまたま、南田中だったんです。当時は『練馬といえばとしまえん? でも豊島区だっけ?』くらいの知識しかなかったんですよ(笑)。今こんなに練馬練馬と言うなんて、当時は思いもしませんでした!」
偶然で出会った土地なのに、宅美さんの練馬へのこだわりは相当のもの!
「程よく都会で、程よく田舎。子どもが多いのもいいものがあるからで、練馬はポテンシャルを秘めている。でも、路線ごとに特色が違うので、自分の地域外のことは何も知らなかったり…なんともったいないんだと! 練馬はいい場所だというイメージ発信のツールとしても、ラジオを使っていけたらなと思うんです。よく、ラモスや闘莉王といった外国人選手が日本人以上に日本を愛してますけど、僕も“練馬の闘莉王”になりたいですね!」
ラジオに救われた学生時代
そのラジオに恩返しがしたい!
練馬のほかには、サッカー、鉄道、そしてラジオのことを語らせたら何時間でも止まらないという宅美さん。彼のラジオとの出会いは、学生の頃にさかのぼります。
「もともと両親がラジオ好きだったんですが、ハマったのは中学時代。『斉藤一美のとんかつワイド』という深夜放送がきっかけでした。当時、僕はぜんそく持ちで、学校に行けないことがよくあって。そんな時でも、スイッチを入れれば、変わらず自分に向かって喋りかけてくれる…。顔も知らないのに兄貴的存在。その安心感に、何度も勇気付けられ、助けられていました。番組が終わった時は、ラジカセの前で泣いちゃいましたね。この番組のおかげで、ラジオにはTVとは違うよさがあると気づいたんです。今の30代以下の多くの人たちは、『ラジオは絵のないTV』と思っているんですが、そうじゃない。別の魅力があって、電波のメディアでは一番古い80年の歴史を続けてきた力がある。僕はそれを伝えることで、ラジオに恩返しがしたいんです」
ラジオへの熱い想いを持った彼が、ラジオの力を改めて感じたのが、3.11の大震災でした。
「当日、仕事で横浜にいたのですが、家族や友人が心配という一心で、ポータブルラジオ片手に練馬まで6時間かけて歩いて帰ったんです。乾電池一本で何時間も聴けて、携帯しやすいラジオって、やっぱり頼りになるなと。同時に、一言でいいから『練馬は今、◯◯です』と状況を伝えてくれるメディアがあれば安心なのに…と強く感じました。あの日以降、日本全体の価値観が変わったと思うのですが、営業をしていても、以前より練馬放送の話を聞いてくれる人が増えました。不謹慎かもしれませんが、ラジオにとってはチャンスの時期なのかもしれません。これをきっかけに、『練馬といえばアニメ、大根』と同じくらい、『練馬といえば練馬放送』と言ってもらえるように頑張りたいです!」
としまえんの前にFMラジオ局を作って、ギャラクシー賞をとる…それが人生の大きな目標! と夢を語る少年のような熱い口調が印象的でした。練馬FMの開局、心待ちにしています!
(2011年8月1日更新)
練馬のよさとポテンシャル
練馬にコミュニティFMを作ろうと活動している「練馬放送」の代表の宅美さん。現在、毎週日曜10時から、生放送番組の「ねりなま!サンデー」を始めとするインターネットラジオを行いつつ、各種イベント参加や営業に大忙しの日々。今年5月には関町に、念願の専用スタジオを開設しました。
「しみ抜き専門業者の知人が、独立の時、声をかけてくれたんです。しみ抜き店と同居するラジオ局は、世界でここだけかなと…(笑)。今までは機材を持って区内を転々としていたんですが、やっぱり拠点があるといいですね。毎週の生放送には、差し入れしてくださる方がいたり、子どもと見学に来られたり、反応があってうれしいです」
そもそも練馬放送とは、2009年に有志数名でたちあげた任意団体です。でも宅美さん自身は埼玉の出身。なぜ練馬に拠点を置いたのでしょうか?
「昔からラジオが好きで、ミニFM番組の自主制作をやっていたんです。でも、毎週集まっていた仲間の家が使えなくなってしまい、みんなが集まりやすい中間地点に移動しようとなった。それがたまたま、南田中だったんです。当時は『練馬といえばとしまえん? でも豊島区だっけ?』くらいの知識しかなかったんですよ(笑)。今こんなに練馬練馬と言うなんて、当時は思いもしませんでした!」
偶然で出会った土地なのに、宅美さんの練馬へのこだわりは相当のもの!
「程よく都会で、程よく田舎。子どもが多いのもいいものがあるからで、練馬はポテンシャルを秘めている。でも、路線ごとに特色が違うので、自分の地域外のことは何も知らなかったり…なんともったいないんだと! 練馬はいい場所だというイメージ発信のツールとしても、ラジオを使っていけたらなと思うんです。よく、ラモスや闘莉王といった外国人選手が日本人以上に日本を愛してますけど、僕も“練馬の闘莉王”になりたいですね!」
ラジオに救われた学生時代
そのラジオに恩返しがしたい!
練馬のほかには、サッカー、鉄道、そしてラジオのことを語らせたら何時間でも止まらないという宅美さん。彼のラジオとの出会いは、学生の頃にさかのぼります。
「もともと両親がラジオ好きだったんですが、ハマったのは中学時代。『斉藤一美のとんかつワイド』という深夜放送がきっかけでした。当時、僕はぜんそく持ちで、学校に行けないことがよくあって。そんな時でも、スイッチを入れれば、変わらず自分に向かって喋りかけてくれる…。顔も知らないのに兄貴的存在。その安心感に、何度も勇気付けられ、助けられていました。番組が終わった時は、ラジカセの前で泣いちゃいましたね。この番組のおかげで、ラジオにはTVとは違うよさがあると気づいたんです。今の30代以下の多くの人たちは、『ラジオは絵のないTV』と思っているんですが、そうじゃない。別の魅力があって、電波のメディアでは一番古い80年の歴史を続けてきた力がある。僕はそれを伝えることで、ラジオに恩返しがしたいんです」
ラジオへの熱い想いを持った彼が、ラジオの力を改めて感じたのが、3.11の大震災でした。
「当日、仕事で横浜にいたのですが、家族や友人が心配という一心で、ポータブルラジオ片手に練馬まで6時間かけて歩いて帰ったんです。乾電池一本で何時間も聴けて、携帯しやすいラジオって、やっぱり頼りになるなと。同時に、一言でいいから『練馬は今、◯◯です』と状況を伝えてくれるメディアがあれば安心なのに…と強く感じました。あの日以降、日本全体の価値観が変わったと思うのですが、営業をしていても、以前より練馬放送の話を聞いてくれる人が増えました。不謹慎かもしれませんが、ラジオにとってはチャンスの時期なのかもしれません。これをきっかけに、『練馬といえばアニメ、大根』と同じくらい、『練馬といえば練馬放送』と言ってもらえるように頑張りたいです!」
としまえんの前にFMラジオ局を作って、ギャラクシー賞をとる…それが人生の大きな目標! と夢を語る少年のような熱い口調が印象的でした。練馬FMの開局、心待ちにしています!
(2011年8月1日更新)
関町に専用スタジオが
オープンしました!
2011年6月25日に開催した
「ぽてとまつり」を生中継。
イベントの出展も、
重要なPR活動です!
メインパーソナリティの
TAKAHA-Cさんは北海道出身。
学生時代に文通で知り合った仲
小学生から、
「ラジオで聴くのと同じ声だ!」
と、驚かれることも
カフェのテーブルに機材を
持ち込んでの生放送!
『月刊Kacce』との
コラボ番組の収録風景
マイクやミキサー、
スピーカー、パソコンなどの
機材を駆使してラジオ番組が
作られています
表情からも、温和で明るい
人柄が伝わってきます