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ねりま人#130 牧野一浡さん(牧野記念庭園学芸員) 画像

ライター:松田 亜希子 さん ねりま人

ねりま人#130 牧野一浡さん(牧野記念庭園学芸員)


プロフィール/まきのかずおき 1946(昭和21)年、練馬区東大泉生まれ。現在も東大泉在住。「日本の植物分類学の父」として知られる牧野富太郎博士(1862~1957年)のひ孫。企業を定年退職後、東大泉にある「牧野記念庭園」の学芸員として、富太郎博士の業績を顕彰する活動に携わっている。

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緑したたる夏の「牧野記念庭園」


近代植物分類学の礎(いしずえ)を築いた稀代の植物学者、牧野富太郎博士。晩年の約30年間を過ごした東大泉の住居と庭の跡地が「牧野記念庭園」として広く開放されているのをご存じでしょうか。牧野一おきさんは、記念館を併設したこちらの庭園で学芸員をされています。そして富太郎博士のひ孫さんなのです。


富太郎博士は練馬区名誉区民。2023(令和5)年春からNHKで放送予定の連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルになることが決まり、今、練馬区民を沸かせている人物です。そんな博士の身近にいた親族だから語れるエピソードや、記念庭園にかける想いなどを一おきさんにお伺いしました。


 


 


 

牧野富太郎博士と共に暮らした幼少時代

牧野富太郎博士と共に暮らした幼少時代 画像

生後間もない一おきさん。母のタツヱさん、祖母の鶴代さん、富太郎博士と(個人蔵)


戦後間もない1946(昭和21)年に生まれた一おきさん。3歳でお母さまを亡くし、富太郎博士の次女である祖母・鶴代さんに育てられます。当時、鶴代さんは富太郎博士と同居し、身の回りの世話をしていました。それで一おきさんも晩年の博士と一緒に暮らすことになったのです。


「同じ家に住んではいたけれど、富太郎に遊んでもらった記憶は一切ないんです。94歳で亡くなるまで、ひたすら植物研究に没頭していましたからね」と一おきさん。


 


 


 

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植物標本を収めた庭の標品館前にて。前列左端が4歳の一おきさん(個人蔵)


鶴代さんが富太郎博士のためにテレビを買っても、まったく見ようとしなかったといいます。NHKが試験放送を始めたテレビの草創期です。庶民憧れの家電製品はさぞや高価だったことでしょう。


「テレビどころかラジオも聴かなかったんじゃないかな。やることが多すぎて時間が足りない、200年も300年も生きなくてはと自分で思っていたと思います。なにしろ植物学雑誌に発表される新しい知見が、絶えず富太郎のもとに入ってきていました。それらを反映した図鑑の改訂版を早く出さなければと思って、日夜仕事をしていたのでしょう」


 


 

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「牧野日本植物図鑑」の初版本


図鑑とは1940(昭和15)年に富太郎博士が出版した「牧野日本植物図鑑」です。3,206種の植物が図解され、当時の人々はみんなこの図鑑で植物の名前を覚えたと言われています。3 ,896種に増やした改訂版が出たのは、没後の1961(昭和36)年のこと。その後も増補改訂を重ね、今でも多くの人に利用されています。


 


 


 

自然豊かな大泉でのびのび育つ

自然豊かな大泉でのびのび育つ 画像

富太郎博士に買ってもらった自転車と自宅前で(個人蔵)


一おきさんが富太郎博士と暮らした1950年代の大泉は、雑木林と畑が広がるのどかな田舎町でした。「この庭園のすぐ近くに自動車教習所がありますが、かつてそこは藁ぶき屋根の農家でした。雨が降ると、よく軒下で遊ばせてもらったものです」


小学1年生のときから登校拒否児だったという一おきさん。「勉強も学校の規律も嫌いでね。『行ってきます』と言って家を出て学校に行かず、近所で遊んでいました。あまりに勉強しないので家庭教師がついたんですが、家庭教師の先生がうちに来てまずやらなければならないのは、『一おきく~ん』と僕を探すことでした。勉強から逃げたくて、いつも屋根に登ったり雑木林に隠れたりしていましたからね(笑)」


 


 


 

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病床の富太郎博士と(個人蔵)


一おきさんが自由奔放だったのは、小学校を中退し、野山を駆け回って植物採集に明け暮れたという富太郎博士の血でしょうか。「でも僕は富太郎と違って、学校が嫌いだっただけなんですよ。牧野家で一番植物に詳しかったのは鶴代で、植物の専門誌をよく読んでいましたね」


富太郎博士が家族に看取られながら亡くなったのは、一おきさんが10歳のときです。40万点に及ぶ植物標本を収集し、1,500種類以上の植物を発見・命名するなど、日本の植物分類学の発展に尽力した94年の生涯でした。


 


 

祖母の想いを受け継いで

祖母の想いを受け継いで 画像

植物標本の収蔵庫での鶴代さん(個人蔵)


鶴代さんは富太郎博士の暮らしの世話やお金のやりくりだけでなく、出版社との交渉や植物同好会の方々のケアなど、多岐にわたる仕事をしていました。「マネージャー、あるいはプロデューサーのような役割をしていたと思います」と一おきさん。


献身的に富太郎博士を支えた鶴代さんの胸には、父への深い尊敬の気持ちがあったのでしょう。それは終生変わらず、博士死去の翌1958(昭和33)年に開園した「牧野記念庭園」や高知の「牧野植物園」、東京都立大学の「牧野標本館」の設立にも大きく貢献することになります。


 


 


 

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青年時代の一おきさん。鶴代さんとの2ショット(個人蔵)


「鶴代が亡くなったのは1974(昭和48)年です。亡くなる間際に『私がやってきたことをあなたが受け継いで』と僕に言いました。つまり富太郎の業績を後世に伝える仕事を託されたのです」


一おきさんは鶴代さんが亡くなって間もなく結婚しますが、変わらず東大泉に住み続けました。「今も庭園から100mほどのところに住んでいます。ずっとこの土地を離れなかったのは、鶴代の思念が働いているからなのかなと思ったりしますね」


 


 


 

忘れられていた貴重な蒐集品を発見

忘れられていた貴重な蒐集品を発見 画像

サラリーマン時代の一おきさん(個人蔵)


鶴代さんにあとを託された一おきさんですが、大学卒業後に入社した企業でサラリーマンを続けていました。「電気設備工事会社の資材を調達する商事会社にいました。仕事は楽しかったですね。学校は嫌いだったのに、なぜか会社に行くのは苦ではなかった。子どものころはかなりボーッとしていたけれど、大人になってようやく頭の中の霧が晴れたのではないかと思います(笑)」


そんな一おきさんの状況が変わったのは、長年勤めた企業を定年退職するころのこと。富太郎博士の貴重な蒐集品が見つかったのがきっかけでした。「東大泉の町内で引越しをしたとき、どさくさにまぎれてどこに行ったのかわからなくなっていた荷物がありました。埼玉の妻の実家の倉庫につづらがいくつも運び込まれて、何十年も忘れられていたんです。僕は仕事ばかりで引越しのときもいなかったので、そもそも荷物の存在すら知らなかったんですが」


 


 

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蒐集品は折に触れ、記念館の企画展で展示される


倉庫を取り壊すから荷物を引き取ってほしいと連絡を受け、その存在を知った一おきさん。行ってつづらのフタを開けると、そこには富太郎博士が蒐集した1,500点以上もの植物画が眠っていました。「生前の鶴代が大切に保管していたものです。どれも見事な絵で、あとで知ることになりますが、服部雪斎や関根雲停など、江戸時代から明治時代に活躍した博物絵師たちによって描かれた、それはそれは貴重なものでした」


当時は学芸員の資格を持っていなかった一おきさんですが、素人目にも文化財として扱うべきものだとわかり、「牧野記念庭園」を管理する練馬区に相談して収蔵してもらいました。「ちょうど園内の記念館の建て替え時期だったので、新しい建物では展示するとき日光に当たらないようにするなど、貴重な作品や資料の劣化をできるだけ防ぐ設計にしてほしいとお願いしました」


 


 


 


 

「牧野記念庭園」の学芸員となって

「牧野記念庭園」の学芸員となって 画像

学芸員の方々とオフィスで


定年退職、記念館の建て替え、そして蒐集品の発見。絶妙なタイミングでこれらが重なり、一おきさんは学芸員の資格を取るとともに、リニューアルオープンした「牧野記念庭園」の運営に携わるようになりました。2010(平成22)年夏のことです。


「僕は長年サラリーマンをしていた“にわか学芸員”です。ほかに学芸員が3人いて、庭園の運営は優秀な彼女たちがいるから成り立っていると思っています。記念館の企画展示室で、年に4回ほど富太郎や植物にまつわる企画展を開催していますが、それも彼女たちが企画してくれています。だから僕の使命はスタッフが仕事しやすい環境を整えること。あとは展示のために額縁を運んだりね(笑)」


 


 


 

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さまざまな企画展が好評を博している


この仕事をするようになって何よりもうれしいのは、富太郎博士とゆかりのある方々のご遺族やご子孫とのネットワークが復活しつつあることだといいます。ゆかりの方々とは、たとえば富太郎博士の植物本の出版に尽力した園芸家で編集者の石井勇義(ゆうぎ)さん、博士が最も信頼した植物画家の山田壽雄(としお)さんなどです。


「鶴代が亡くなったあと、ネットワークがぷっつり切れてしまっていたのですが、企画展の構想段階で消息をたどるうちに、こういった方々のお孫さん世代とつながる機会を得ました。『牧野先生からのお手紙がうちにこんなに残っているんですよ』と見せていただいたり、自宅に眠っていた植物画を寄贈いただいたりすることが多く、ありがたいなと思っています。実は明日も高知へ行くんですよ。富太郎が植物を送ってもらうなど大変お世話になった方の息子さんを訪ねて、何か富太郎の資料が残っていたら見せていただけないかとお願いする予定です」


 


 


 

いつか植物画のミュージアムに

いつか植物画のミュージアムに 画像

富太郎博士の胸像のそばで


多彩な植物が生育する庭だけでなく、素晴らしい植物画を所蔵していることでも知られるようになってきた「牧野記念庭園」。「これからやりたいと思っているのは、植物画のコンクール開催です。全国、いや世界から応募を募って、金賞を受賞した人は世界で通用するボタニカルアーティストになれる。そんなコンクールになっていったらいいなと夢見ています。その延長線上に、ここが本格的な植物画のミュージアムになる未来があればいいなともね」


「牧野記念庭園」が、植物のみならず植物画の魅力を世界に広める発信地となるのは、それほど遠い未来ではないかもしれません。


牧野記念庭園情報サイト http://www.makinoteien.jp/
(取材日:2022年3月18日)


フリー編集者&ライター 松田亜希子(Akiko Matsuda)


 


 

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