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ゆったりとした芝生広場、まっすぐに続くイチョウ並木、野球場やテニスコートなど、散歩もスポーツも楽しめる光が丘公園。23区内で4番目の広さを誇る約60万平方メートル、光が丘駅から近い場所にあります。そんな区民の憩いの場である穏やかな公園ですが、その過去を振り返ってみると…、「のどかな農村地帯だった場所が、戦時中は飛行場に? その後はアメリカになったの!?」と、今の姿からは想像がつかないような意外な歴史を歩んできました。さあ、時代を感じながらタイムトラベルしてみませんか。
〔昭和初期〕農村では練馬大根の栽培が盛ん
〈写真〉練馬大根の日干し風景(練馬わがまち資料館より・1935年)
光が丘公園のある地域は、古い地名では「下土支田村」や「上練馬村」にあたり、田柄、土支田、高松などの集落がありました。
土壌がよく、当時は畑が広がる農村地帯。昭和の初めごろまでは、練馬大根が盛んに作られていました。収穫後は沢庵漬を作り、都心にも近い立地を生かして、各地に出荷されていました。
〔戦時中〕突貫工事で成増飛行場ができた
〈写真〉成増飛行場の搭乗員と面会の女性(練馬わがまち資料館より・1943年)
農村の風景を一変させたのは、1941(昭和16)年から始まった太平洋戦争。戦況が悪化するなか、当時の陸軍は首都を守るために、東京郊外に飛行場を造る計画を立てました。
候補地の一つとなったのが、下土支田村や上練馬村の農村地帯。川越街道と富士街道に挟まれた約150ヘクタールの土地に飛行場を作ることになりました。成増に近いので「成増飛行場」と言いますが、正門が高松の集落側にあったので「高松飛行場」とも呼ばれていました。
当時、飛行場用地内に住む農家は、強制的に立ち退きを命ぜられ、1943(昭和18)年6月に用地接収が始まり、8月に工事に着手、10月には滑走路が完成。驚くべき突貫工事ですが、陸軍工兵隊や民間人、学生や刑務所の囚人も駆り出され、その数や毎日数千人だったと言われています。
〔終戦〕1年あまりで消えた飛行場
〈写真〉成増飛行場の航空写真(練馬わがまち資料館より・1944年)
〈写真〉戦闘機の残がい散らばる成増飛行場(練馬わがまち資料館より・1945年)
1944(昭和19)年、戦況はますます悪化し、ついに本土への空襲が始まりました。成増飛行場には「鐘馗(しょうき)」という大型の戦闘機70〜80機が配備され、敵機へ体当りをする特攻隊のひとつ「震天制空隊(しんてんせいくうたい)」も編成されました。
米軍の標的とされた成増飛行場は、1945(昭和20)年の3月と4月に爆撃を受けています。この頃になると日本は沖縄戦に備えるため、部隊の主力を山口県小月飛行場へ。成増飛行場からも戦闘機や人員も移動していきました。
そして、8月15日に終戦。8月24日には米軍兵が成増飛行場にジープで乗り付け、戦闘機はもちろんカモフラージュ用の木製模造飛行機まで、ガソリンを撒いて焼き払っていきました。
〔戦後〕平成の時代まで残っていた掩体壕(えんたいごう)もある
〈写真〉太平洋戦争で使用されていた掩体壕(成増飛行場)は、戦後もいくつか残っていた
(練馬わがまち資料館より・1977年)
〈写真〉横から見た掩体壕(田柄4丁目)。取り壊し工事のため測量を行っている様子(練馬わがまち資料館より・1981年)
掩体壕はおよそ縦13m、横20m、高さ5mという大きさで、間口が大きく開き、戦闘機をバックで入庫する形状。鉄筋だけでなく、竹筋のコンクリート製もあったそうです。
戦後もいくつかの掩体壕は、地域に残っていました。住宅不足もあり、掩体壕を仮住まいや飯場として利用したり、旅芸人の舞台となったりしたことも。さらに、漬物屋さんの保存庫や、平成の時代になっても薬品会社の機械室として利用されたという記録も残っています。
中には完全に壊さずに埋められたものもあり、後年の区画整理などで、掩体壕の土台が出てきて驚くこともあったそうです。
〔昭和21年〜〕米軍の住宅地「グラントハイツ」
〈写真〉グラントハイツの航空写真(練馬わがまち資料館より・1953年)
1946(昭和21)年頃になると、元の地主や満州からの引き上げ者が成増飛行場跡地で耕作を開始しました。組合を作り、土地を割り振って、戦後の食糧不足の時代にやっと作物を作れる、と思いきや…。
なんと、その場所に米軍家族の住宅地として、1947(昭和22)年3月から新たな建設が始まりました。完成したのは1948(昭和23)年6月、「グラントハイツ」と名付けられました。
総面積180ヘクタール。1,200世帯の住宅の他に、学校や教会、劇場、売店、兵士のクラブなど3,000余りの施設が作られ、飛行場があった場所にアメリカの街ができました。
基地としての機能は備えていなかったので、ものものしい雰囲気はありません。芝生の庭付きの広い家、大型の洗濯機や冷蔵庫、掃除機などの家電、それらを使いこなすアメリカ人の生活ぶりは驚くほど豊かでした。
グラントハイツ内では、メイドや施設の設備管理などの仕事で、5,000人を超える日本人が働いていたそうです。その他にも、配達に行ったり、英会話を習ったりと、アメリカ人と接点を持つように。周辺に住んでいた今のシニア世代は、何かしらの思い出があるのではないでしょうか。
グラントハイツの名前の由来
〈写真〉グラントハイツ内風景(練馬わがまち資料館より・1967年)
〈写真〉グラントハイツ内風景(練馬わがまち資料館より・1967年)
当時、都内の米軍住宅の名称は、代々木の「ワシントンハイツ」や、国会議事堂前の「リンカーンセンター」など、アメリカ大統領の名前が使われていました。
「グラントハイツ」は、南北戦争後に第18代アメリカ大統領になったグラント将軍に由来しています。1879(明治12)年に来日し、伊藤博文や岩倉具視とも会談した将軍です。
飛行場跡地の広々とした場所がグラウンドをほうふつさせるためか、「グランドハイツ」だと勘違いしている人も多いようですよ。
ケーシー線という鉄道が走っていた!
〈写真〉ケーシー線の上板橋駅から北町(現・錦2丁目)付近を走る蒸気機関車
(練馬わがまち資料館より・1954年)
〈写真〉ケーシー線の線路の一部が、北町地区区民館1階の青少年育成第八地区委員会の入口に展示されています(2021年9月)
グラントハイツの暮らしには、「ケーシー線」も大きな役割を果たしました。
もとは、戦時中にあった上板橋駅(東武東上線)から旧陸軍第一造兵廠(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地)まで敷かれていた線路。それを1947(昭和22)年に延長し、終点のケーシー駅(田柄高校の北側)ができました。
グラントハイツの建設工事総責任者だったケーシー中尉の名前に由来して、ケーシー線と呼ばれていました。当時の地図には「啓志線」と漢字で記されています。
工事のための物資輸送、完成後も地域暖房に使う石炭などを運搬。燃料が石炭から重油に替わるなどして、輸送量が徐々に減り、1959(昭和34)年に廃止になりました。
〔昭和35年〜〕金網の中は荒れた原っぱに
グラントハイツは10年ほどで消えていきます。
そこに住んでいた米軍家族は、立川や横田基地に通勤していましたが、次第に渋滞などの理由で、勤務地の近くへ移転する人が続出。1960(昭和35)年頃になると、住民はほとんどいなくなり、雑草が茂る広大な空き地が残されました。
もともと金網で囲われていたグラントハイツ。貯水槽や害虫駆除の管理が行き届かなくなると、悪臭や蚊・ハエも発生。また、「金網の向こう側を野犬が走り回っていた。野犬はたくさんいたので怖かった」と、多くの人が当時を語ります。
周囲に影響が出ても、米軍の土地のため日本人が踏み入ることはできません。1960年代半ばから、「練馬区の土地として活用したい」と、返還活動が動き始めました。
〔昭和48年〕アメリカからついに全面返還
〈写真〉グラントハイツ跡地利用区民総決起集会(練馬わがまち資料館より・1971年)
1964(昭和39)年、練馬区長が東京都知事に、グラントハイツの解放を要請しました。4年後に米軍から返還の同意を得て、ここから民間団体、練馬区、東京都、国と共に、グラントハイツの跡地利用の検討が始まりました。
地域住民にとって、跡地に何ができるかは大きな関心ごと。当時のアンケートでは、60%以上の人が公園を希望し、次に多かったのは病院で、図書館、都営住宅と続きます。住民の意見を元に、関係各所にとってよりよい着地点を探りながら、数年の歳月をかけて協議を重ねていきました。
1973(昭和48)年9月、ついに全面返還。広大な光が丘公園をはじめ、アンケートに上がった施設などが決定し、順次建設されていきました。成増飛行場の時代から30年間も日本陸軍や米軍に使われてきた土地は、この時から、ようやく地域のために利用できるようになったのです。
〔昭和56年〕光が丘公園がついに開園!
〈写真〉開園から2年経った光が丘公園(練馬わがまち資料館より・1983年)
グラントハイツの時代はアメリカの管理下にあったので、敷地内に日本の町名は付いていませんでした。
そこで1969(昭和44)年、練馬区役所住居表示課が新町名を提案。もともと武蔵野の雑木林で、四季を通じて青々とした台地であることと、練馬区は「緑と太陽」のイメージであることから、「緑が丘」「緑台」「青葉台」「若葉台」「光が丘」の5つが候補に。
これを住居表示審議会や関係町会長、地元区議にはかり、「光が丘」に決まりました。大掛かりな工事を経て、グラントハイツ跡地の北側部分に、1981(昭和56)年に光が丘公園が開園しました。
歴史をずっと見てきた「屋敷森」
〈写真〉屋敷森の様子(2021年9月)
〈写真〉屋敷森に残されているグラントハイツ時代の英字の道路標識(2021年9月)
公園内のテニスコートの東側に、ひっそりと佇む「屋敷森(やしきもり)」をご存知ですか。
扉を開けて中に入ると、鬱蒼(うっそう)とした森と小径があります。かつては300年の歴史をもつ農家がありました。樹齢100年を超すケヤキやムクノキもあり、嵐や雪からその家屋を守るために植えられました。
かなりさび付いていますが、屋敷森の中には、英字で書かれた駐車禁止の看板が今も残され、かつてはアメリカであったことを伝えています。
〔現在〕公園の地下には、巨大な貯水槽がある!
〈写真〉都立練馬給水所内(光が丘公園内)(練馬わがまち資料館より・1980年)
みどり豊かで広々とした現在の光が丘公園。スポーツや散歩などを楽しむだけでなく、災害時の避難場所に指定された防災公園でもあります。
練馬給水所として、野球場や陸上競技場あたりの地下に25mプール800杯分に相当する20万㎥の貯水槽があります。
埼玉県の三郷浄水場と板橋区の三園浄水場から送られた水を貯め、23区の城北・城南地区に給水。区内だけでなく、広く都民の生活を守る役割を果たしています。
〈写真〉災害時給水ステーション(2021年9月)
例えば、テニスコートの近くには3か所の災害時給水ステーションがあり、ポリタンクやペットボトルを持参すると給水を受けることができます。
〔現在〕地域と共に! 防災公園の役割も
〈写真〉かまどベンチ(左)と、災害対応トイレ(右)のマンホールのふた(2021年9月)
防災公園としての機能は、他にもいろいろあります。目にしていても、意外に気がついていないかも!?
・かまどベンチ
普段はベンチとして使われていますが、災害時には座る部分の板を外すと、かまどとして利用できます。これは芝生広場の東屋の近くと、バーベキュー広場にあります。
・災害対応トイレ
ふたに「災害用トイレ」と書かれたマンホールは、下水管に直結しています。ふたを開けて、その上にテントや便器を設置して利用します。サービスセンターの近くと芝生広場にあります。
その他、緊急時には野球場や陸上競技場がヘリコプター臨時離着陸場となっています。これらは出番がないに越したことはありませんが、もしもの時のために覚えておくといいですね。
公園のいちょう並木を歩くとき…
〈写真〉光が丘公園「ふれあいの径」いちょう並木は、都内でも有数の黄葉スポット(2018年11月)
光が丘公園の中央を真っすぐに延びる、いちょう並木。実はこの道、成増飛行場の滑走路の一部だったんですよ。グラントハイツ時代も敷地内のメインストリートでした。
ちなみに、このいちょうの樹齢は110年超。かつて有楽町にあった東京市役所(今の都庁のこと)前に植えられていたもので、JR京葉線の工事の支障となるため、1985(昭和60)年、光が丘公園に40本が移植されました。
光が丘公園の土地の歴史、タイムトラベルはいかがでしたでしょうか。さまざまな歴史を経て、今の光が丘公園があるんですね。園内を巡るとき、たまには過去に思いを馳せてみませんか。
(歴史関連:参考資料)
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/fukei/daikon/daikontoha/saiseiki.html
https://www.nerima-archives.jp/column/1622/
https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_3genseihen/genseihen_honcho2.xhtml#hon_page122
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/view023.html
・「練馬を往く」練馬区教育委員会 編
・「月刊光が丘」1988年6月号 グランドハイツ特集
・「月刊光が丘」1990年7月号 掩体壕特集
・都立光丘高校公開講座「光が丘学」加藤竜吾 著
(防災関連:参考資料)
https://www.tokyo-park.or.jp/special/bousai/sisetsu.html
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kurashi/bosai/jishinsonae/manholetoilet.html
https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/kurashi/shinsai/kyoten.html
株式会社協同クリエイティブ
練馬・板橋のタウン誌「月刊Kacce(かっせ)」を発行している会社です。創業は1978年、地元の人とのつながりを大切にしながら、取材、HPや印刷物の制作を行っています。紙媒体とWebの両方で地域情報を発信しています!
(原稿作成:2021年9月1日)