特集記事 Reviews

ねりま人#129 寺田体育の日さん(お笑い芸人、大川興業副総裁) 画像

ライター:協同クリエイティブ さん ねりま人

ねりま人#129 寺田体育の日さん(お笑い芸人、大川興業副総裁)


プロフィール/1962年米ニューヨーク生まれ。5歳から練馬区在住。運動が大好きで、小学生時代は野球少年。お笑い芸能事務所の大川興業株式会社のオーディションに合格し、1987年新卒で入社。後に副総裁。東京ボディビル選手権に出場経験を持つ肉体派芸人。若手芸人育成にも力を注ぐ。妻と子ども2人の4人家族。ニューヨークで活躍するアーティストの寺田真由美さんは姉。練馬区内で好きな場所は、子どもの時から親しんだとしまえん(2020年閉園)。

 画像

〈写真〉大川興業主催「すっとこどっこい大晦日スペシャル」


「練馬最強」の文字が入った真っ赤なTシャツを着て、“練馬愛”を全面に押し出して登場した、お笑い芸人の寺田体育の日さん。大川興業社長である大川豊総裁の右腕として副総裁を務め、若手の登竜門ライブ「すっとこどっこい」では、芸人育成にも力を入れています。自然いっぱいの練馬でのびのびと育った少年が、好きなお笑いの世界に飛び込み、この道一筋、気がつけば早34年! 半生を振り返りながら、どうやって壁を乗り越えてきたのか、何を大切にしてきたのかなどお聞きしました。寺田さんの真っ直ぐな言葉には、今を生き抜くヒントがありました。

子どもの頃、勉強しなかったのは練馬のせい(笑)

子どもの頃、勉強しなかったのは練馬のせい(笑) 画像

〈写真〉練馬リトルリーグで野球に夢中だった頃。空き地にて(小学5年生)


5歳からずっと練馬区在住の寺田さん。どんな少年時代だったのでしょうか。


「子どもの頃を思い出すと、草の匂いも一緒に蘇ってくるんです。原っぱや藪(やぶ)がそこら中にあったので、走り回ったり、かくれんぼをしたり。毎日、真っ暗になるまで遊んでいました。小学生の時は、野球やサッカーにも熱中してました。だから勉強した記憶がないのは、自然いっぱいの練馬の環境が僕をそうさせてしまったんです(笑)」

 画像

〈写真〉少年サッカーの公式戦ではグラントハイツを開放してくれた。広大な緑の芝生がまぶしく、日本にいるとは思えないような光景だったそう(小学3年生)

 画像

〈写真〉中学校の運動会で応援団長に! まさか将来、学ランを着て仕事をするとは夢にも思ってなかった!?


「あと地元の思い出で欠かせないのは、としまえんです。当時は近隣住民にチケットがたくさん配られたので、夏休みは毎日のようにプールへ行ってました。遊園地は楽園ですよ! こんな楽しい所はないと思ってましたから。2020年8月は閉園を惜しみながら、としまえんに行ってきました」

学ランとお笑いに憧れて、新卒で大川興業に入った!

学ランとお笑いに憧れて、新卒で大川興業に入った! 画像

〈写真〉東映演技研修所での舞台公演。ミュージカル「もっと泣いてよフラッパー」で床屋のチャン役


芸能界を目指すようになったきっかけは?


「20歳の時に、役者はおもしろそうという興味から、大泉の東映演技研究所に入りました。舞台や映画に出演させてもらいましたが、やってみて思ったことは、この世界では何か武器がないと通用しないな、ということ。一言二言のちょい役が精一杯でした」


その後、自分の武器を求めて、倉田アクションクラブの1期生が作った劇団へ。


「毎日アクションの練習をして、劇場で芝居を何回かしました。楽しかったですが、それでは食べていけない。テレビドラマの『Gメン'75』に出るような一流の役者さんたちでも、他の仕事や劇団の仕事をかけ持ちしているのを見て、きつい仕事だと分かりました」


俳優の厳しい現実を知ったころ、人生の転機となる大川興業との出会いが訪れました。


「大川興業はテレビを見て知っていました。こんな過激なパフォーマンスをして大丈夫か!?  と思うほどインパクトが大きかった。その頃、『月刊デビュー』というオーディション情報誌で、大川興業が団員を募集していることを知り、学ランとお笑いに憧れがあったので『これしかない!』と、すぐにオーディションに応募。落ちたら芸能の道をあきらめる覚悟でした」


200人以上の応募者から、合格者はわずか5人。寺田さんはアクションクラブで鍛えたバク転やバク宙を披露し、イケメン + 身体能力の高さをアピールして見事合格しました!

「今日は何の日だ?」数秒で決まった芸名秘話

「今日は何の日だ?」数秒で決まった芸名秘話 画像

〈写真〉大川興業に入った頃(1987年)


「当時の日本はバブル景気の真っ盛り。『ドーンと鳴った花火がキレイだな』という大川興業の学ランパフォーマンスは、世間から注目され、イベントを盛り上げるような仕事がバンバン入ってきましたね」


その一方で、大川総裁は「団体ばかりでなく個人でも芸の仕事をしないと実力がつかない」という考えから、寺田さんは事務所の後輩だったフランキー為谷さんと漫才コンビを組んで「ふうりんかざん」として活動を開始しました(1990~2001年)。


「大川興業に所属する芸人は、すべて大川総裁が名付け親です。『寺田体育の日』の由来は、『今日は何の日だ?』と聞かれ、『体育の日ですよ』と答えたら、それで決まり。もし文化の日だったら『寺田文化の日』になっていたんですかね(笑)」

団員が辞める、辞める…、大川興業の一大事だ

団員が辞める、辞める…、大川興業の一大事だ 画像

〈写真〉大川興業の本公演「暗闇演劇」(特許取得)


芸人人生で、大川総裁との忘れがたいエピソードがあると寺田さん。


「入社して1年半くらいの時、総裁が突然、『学生中心の学ランパフォーマンスから、プロの芸人集団にしたい』と言い出したんです。今後について、一人ずつ聞かれていったのですが、皆、『僕は他で就職します』『家業を継ぐので辞めます』という返答ばかりでした」


好きなことがあるのは幸せなこと。それを仕事にするかどうかは人それぞれですが、大川興業にとっては一大事ですね。


「僕以外にもう一人、社会人がいたんですが、ちょっと前まで『続ける』と話していたのに、いきなり『辞める』と宣言。学生たちが全員辞めると言い出したので、急に怖くなったのかも知れません。総裁もまさか彼が辞めるとは思っていなかったので、目が泳いでいました」

ある日突然「副総裁」に。あったのは覚悟だけ!

ある日突然「副総裁」に。あったのは覚悟だけ! 画像

〈写真〉大川総裁(右)と一緒に大川興業を盛り上げてきた寺田さん(左)


寺田さんは大川興業で10年は絶対にやる!と腹を決めていたので、「一から勉強させてもらいます!」と答えたそうです。


「その日、総裁から初めて食事に誘われ、ステーキをご馳走になりました。食べながら、『寺田をこれから副総裁と呼ぶからな』って。ペーペーの自分が、副総裁にのぼりつめた日でした(笑)」

主催ライブで、お笑いを目指す人を応援したい

主催ライブで、お笑いを目指す人を応援したい 画像

〈写真〉寺田さん(左)が「すっとこどっこい」の事前オーディションで、選考を行っているの様子。公共施設の会議室にて


「お笑いを志すすべての人にチャンスがある。お金がなくても始められる」というのが、大川興業のお笑いに対する基本姿勢。


若手の登竜門ライブ「すっとこどっこい」では、レギュラーの芸人以外はネタ見せの事前オーディションがあり、合格した人が出演できます。フリー、大手事務所、何でもござれ。このオーディションの選考を、28歳から現在に至るまで担当しているのが寺田さんです。


「自分は舞台に出るよりも、どちらかというと『新人を育てたい、売れたら嬉しい』という裏方志向があるんです。そこが芸人として売れないところですかね」


そう自嘲しますが、新人教育は事務所にとって大きな役割です。今、業界で活躍するキャイ~ン、海砂利水魚(現くりぃむしちゅー)、メイプル超合金など、そうそうたる顔ぶれも若手のころ出演していました。


「事務所の垣根を越え、外部の芸人も『すっとこどっこい』に出演するというのは『世界大会』と同じ。世界のレベルを知り、ライバル心を持つようになれば、うちの新人もレベルアップにつながります」


31年間、休みなく毎月開催してきた「すっとこどっこい」。コロナ禍でもいち早く感染予防対策を徹底し、劇場が閉鎖した時以外は中止することなく継続。とくに舞台に立つ機会がない若手芸人からは、「ありがたい」という声が多く届くそうです。

新人へのアドバイスは、シンプルに「まずは好かれろ!」

新人へのアドバイスは、シンプルに「まずは好かれろ!」 画像

〈写真〉取材中の様子。ココネリ会議室にて


この30年で、芸人を目指す人は増え、レベルははるかに高くなり、「野球でいうと、150キロの球を投げる人が、そこら中にいるレベル。売れるには、歌手くらい歌が上手いとか、クイズ王くらい頭がいいとか、付加価値が必要」とのこと。では、「すっとこどっこい」のオーディションの審査基準とは?


「私の基準は、ネタが6割で、4割はフリートーク。ネタがよくても、フリートークで熱意が感じられなければダメ。『声が大きくて挨拶ができれば、すっとこに出られる!』と、芸人たちは言いますが、やはりそういう人は応援したくなる。まずは好かれろ!と、教えています」

 画像

〈写真〉大川総裁(左)と寺田さん(右)が司会を務める「すっとこどっこい」のステージ。コンビ(中央)は「銀河と牛」


寺田さんの最近の“推し”芸人は?


「ラグビー二郎や、若手ではないけれどアマレス兄弟、銀河と牛などがいいですね。毎月ゲストコーナーに出ているブルーザーのコントも好き」


ぜひ注目したいです!

後輩への嫉妬から、肉体派芸人ボディビルダーに

後輩への嫉妬から、肉体派芸人ボディビルダーに 画像

〈写真〉ボディビルのジムにて。黒いオイルを全身に塗って黒光り!


お笑いを仕事にして、大きな壁にぶち当たったことはないのでしょうか。


「後輩がみんな売れ出してうれしいのと反面、自分は売れなくて惨めで、嫉妬がものすごかった。ボディビルにのめり込んだのはちょうどその時期。もう肉体派で生きてやる!って。東京ボディビル選手権に33歳から3年連続で出場しました。ジムの人も『始めてすぐに大会に出たい、という人は寺田さんくらいですよ』って、あきれていましたね。ちなみに今はやっていません、ぶよぶよでしょ(笑)」


ネガティブな感情に押しつぶされず、前向きに即行動! 自分に合ったやり方を見つけて、とことんやってみる。 これこそが、寺田さんの最大の武器なのかもしれませんね。

親父から言われた、嬉しかったひと言

親父から言われた、嬉しかったひと言 画像

〈写真〉東京ボディビル選手権の様子


芸人を辞めようと思ったことは、「一度もない」と言います。


「この世界は、運や人との出会いが大きい。僕は本当に恵まれていました。入社したその月から給料をもらい、芸人でこんなにいい待遇はそうそうありません。普通はバイトをして生活するのが当たり前ですから。それに、約20年前から事務所の芸人と特別ユニットを組んでいたんですが、その元相方がゴールデン番組に出る有名人だったので、コロナ直前まで仕事があったんです。これは神がかり的なこと。大川興業には感謝しかありません!」


運や人との出会いで、思い出すエピソードはありますか?


「39歳の時、家を買おうと思って銀行を回ったんですが、どこでもローンを断られました。ある銀行で『大川興業の寺田さんですよね。貸しますよ!』と、大川興業のファンだった担当者が、35年ローンを組めるように工面してくれたんです。おかげで練馬の実家のすぐ近くに家を買うことができ、母の介護もできました」


寺田さんの父親は厳格な元商社マン、芸人になった時は失望されたそうですが…。


「親父が『好きなことで生活できて、家を買えるのはすごい』と、ようやく認めてくれたんです。芸人になって15年くらいかかったけど、嬉しかったなあ」

具体的に動いてみると道が拓ける

具体的に動いてみると道が拓ける 画像

〈写真〉「練馬最強」Tシャツはドン・キホーテで購入。寺田さんの笑顔も最強です!


「最近は、石神井川沿いを5kmくらいランニングをしています。コロナ禍のストレス解消になるし、心肺機能も鍛えられるので習慣になりました」


来年は還暦。人生の節目を迎えます。


「振り返ると、本当にあっという間でした。これから先も、生涯現役で働きたい。でも正直、今後はお笑いでなくても、常に視野を広げ、新しいことにも挑戦していかなければいけないかなと、コロナ禍で感じています」


そのひとつが、2020年9月から配信中のニコニコ動画「大川興業のインデペンデンス・デイ」のコーナー。「目指せ! 練馬の観光大使」という気持ちで、地元・練馬の名所や店なども紹介しています。会員向けの有料動画ですが、半年経つとYouTubeでどなたでも視聴できるようになるので、ぜひチェックしてみてくださいね。


最後に読者へのメッセージをいただきました。


「大川興業は“現場主義”をモットーにしています。悩んだ時には『具体的に動いてみる』ことが大事。そうすると、人との出会いがあったり、何か道が拓けてくると思います。あと生活に笑いとユーモアを! 笑って免疫力をアップさせていきましょう」

大川興業(公式サイト) https://okw.co.jp/
ニコニコチャンネル(会員登録制・有料) https://ch.nicovideo.jp/ookawakogyo
大川興業Twitter https://twitter.com/ookawa_kogyo


株式会社協同クリエイティブ
練馬・板橋のタウン誌「月刊Kacce(かっせ)」を発行している会社です。創業は1978年、地元の人とのつながりを大切にしながら、取材、HPや印刷物の制作を行っています。紙媒体とWebの両方で地域情報を発信しています!


(取材日:2021年8月23日)